決意の前夜
俺は大きな木の前に立っとった。 見上げたその幹にしめ縄があったような気がするけど定かやない。 蝉時雨が喧しかったような覚えもあるけど記憶違いかも知れん。 それがどこやったのか、いつの頃かもよう思い出せん。 その前後の記憶もスッポリ抜け落ちとるけど、俺の脳裏に妙に残っとる光景やった。 木々が葉を落とし、朝晩は結構冷え込むようになった。寒がりの俺にはつらい季節や。 夕暮れ、家の近くの公園前を通りかかるとブランコに人が腰掛けているのに気付いた。 あれ…? 俺は思わず足を止めた。 綾崎さんやった。 綾崎さんは親父の勤め先のお嬢さんや。 綾崎さんは考え事をしているのか、俯いていて俺が近寄っても気付かへんかった。 何度か声を掛けてようやっと綾崎さんは顔を上げた。 「どうしたん?珍しいね、綾崎さんがこんな所にいるなんて」 俺がそう言うと綾崎さんは曖昧な笑顔を浮かべた。 「ええ…ちょっと、一人になりたかったものですから」 こんな所で、それもこんな時間に綾崎さんに会うなんてほんまに珍しい。て言うか、 ほとんどあり得へん。 綾崎さんはどこへ行くにも大抵は黒塗りのごっつい車で送り迎えやし。それはともかく… 「もう遅いし、送ってくわ」 俺は綾崎さんを促した。綾崎家の門限が厳しいのを俺は知っとった。 公園から綾崎家まではそんな大した距離やない。すぐに屋敷の塀に突き当たった。 けど、正門まではぐるっと反対側に回らないかん。 塀に沿って歩きながら俺は時々綾崎さんに話しかけたけど、考え事をしているのか生 返事を返すだけやった。 綾崎さんはおっとりしたとこがあるけど芯はしっかりしてる。けど今の綾崎さんは何 となく頼りなげな感じやった。 と、急に塀が途切れた。どうやら修理の途中らしく、一部だけ塀がなくなっとった。 一応、ロープが張ってあったけど庭がむき出しになっとる。 まあ、ごっつい庭やから奥の屋敷までは距離がありすぎてあんましよう見えんけど。 ここはよう通るけど庭を見たのは初めてや。と、思った次の瞬間、俺の目は庭の木に 釘付けになっとった。 あの木…俺の記憶の中に残っとる木や。あったと思てたしめ縄はないけど、間違いない。 記憶の中の木はもっと大きいイメージやったけどそれは小っこい頃に見たからやろ。 そうや、俺はこの庭に入ったことがある。 あれは小学校に上がるちょっと前やった。母親と一緒に親父の職場に行ったことがあった。 あんまし面白い所やないし、そこらを歩き回るうちに俺は庭に迷い込んどった。 そこにあの木があった。 木の周りで遊んどると、お屋敷から同い年くらいの女の子がこっちを見とるのに気付 いた。 俺はその女の子に一緒に遊ぼうて、声をかけた。 それを聞いて女の子はニッコリ笑って頷いた。パッと花が咲いたみたいな笑顔やった。 けど、俺がその女の子と一緒に遊ぶことは結局、なかった。その場に怖い祖父さんが 出て来はったからや。 俺は怒られてつまみ出された。その上、後で親父にも怒られた。 そのときはただ怖かっただけやけど、つまみ出される俺を見つめる女の子の寂しげな 表情が俺には妙に印象に残っとった。 小学校に上がると、同じクラスにあの女の子が居た。それが綾崎さんやった。 綾崎さんとは小学校6年間ずっと一緒のクラスやった。けど、特に親しく話したこと はなかった。やっぱし、最初に怒られたんが心に引っかかっとったからやと思う。 もっとも、綾崎さんと親しく話したことがないのは俺だけやのうて、クラスメート全 員に言えることやった。それだけ綾崎家のネームバリューはすごいっちゅうことやな。 そのことが、綾崎さんのあの寂しそうな表情を日常の風景の中に埋没させとるのに、 俺は全然気付いてへんかった。あいつに言われるまで…。 小学6年の春、転校してきたあいつは綾崎さんにも気兼ねなく声をかけ、一緒に遊んだ。 俺にはできひんかったことや。 けど、あいつはほんの半年ほどでまた引っ越して行った。 綾崎さんがあいつに向けた笑顔があのとき綾崎家の庭で見た表情と同じやて気付いた のはあいつが居らんようになった後やった。そして… そうや、あいつが居らんようになったときの綾崎さんの表情は今の表情と一緒なんや。 「あの…どうかなさいましたか?」 綾崎さんの声に俺は我に返った。暫く固まっとったらしい。 「いや、別に…」 俺はちょっと躊躇ったけど言うた。 「…あいつとはうまくいってる?」 経緯はよう知らんけど、綾崎さんがあいつと再会して付き合うてるのを俺は知っとった。 綾崎さんは赤なったけど少し寂しげな表情は変わらんかった。 やっぱし、綾崎さんのあの笑顔を引き出せるのは俺やない、あいつだけなんやな。 「綾崎さん…見合いすんにゃて?」 綾崎さんはちょっと驚いた顔で俺を見た。 中学に上がると綾崎さんは私立の女子校に進んだから会う機会はめっきり減ったけど 、親父が綾崎さんの所に勤めとるから、綾崎家の話題も自然と俺の耳に入ってくる。 綾崎さんの見合い話も、こないだ夕食時の親父の話から知った。 相手は歌舞伎界大御所の御曹司やそうで、客観的に言うたら綾崎家と釣り合いの取れた家柄の相手や、けど… 「綾崎さん、あいつのことはええんか」 俺が口を挟むようなことやないのは解っとったけど、そう言わずにはいられへんかった。 俺の言葉に、綾崎さんはただ黙って俯いた。 「あいつはなんて言うてんにゃ?」 「そんなこと…あの方にご相談なんてできません。 「なんで? 迷惑やと思てんの?」 綾崎さんは頷くと続けて言うた。 「それに、これはわたくし自身の問題ですから」 綾崎さんらしい考え方やとは思う。けど…俺は意を決して続けた。 「けど俺があいつやったら一言相談して欲しいと思うやろな」 えっ、というような表情で綾崎さんは俺を見た。 「自分の彼女が何も相談してくれへんて、寂しいやんか。例え力になれへんとしても…」 「そんな、彼女だなんて…わたくしはまだ…」 綾崎さんは真っ赤になって俯いた。 そんな綾崎さんを見て、俺はその後の言葉が出て来いひんかった。 手を伸ばしたら届くくらいすぐ傍に居るのに、綾崎さんの心はここにないのが解っとった。 門の前に着くと、綾崎さんは言った。 「わたくし、あの方に相談してみようと思います。今日はありがとうございました」 綾崎さんの瞳からはついさっきまでの頼りなげな迷いは完全に消え去っていた。 それから数ヶ月、高校を卒業する頃になって綾崎さんが婚約したて聞いた。 相手は歌舞伎界大御所の御曹司やなくて、あいつやった。 |
〜 梅小路久彦さんあとがき〜
| 「共通の友人から見た二人」若菜編・第2部です。 今回のSSを書くに当たって悩んだのは若菜の言葉遣いでした。 「俺」が京都弁ですから本当なら若菜も京都弁にすべきなんでしょうけど、良家のお嬢様が使う京都弁ってどんなん だ…? というわけで若菜の言葉遣いは小説やゲームを参考にしました。 それにしても、ヒロインに最後の一押しを自らしてしまうとは、「俺」ってば人良過ぎ(笑) |
| いつもながら、彼の名脇役ぶりが光ってますね! でも、主人公君はそんなことには気づいてないんでしょうね〜。 まったく、困ったものですよ、はい。 いつも素敵な話をありがとうございます♪ |
