センチメンタル・ストッパーIV・第三話

〜 ただ一度の奇蹟のために 〜



「野球なんか、できません!」
 わたしはそう、言い捨てた。言い捨ててしまった。
甘えだとわかっていた。でももう、いい。どうなっても・・・何もかも! 怒られても
いい。怒鳴られたってかまわない。・・・そんな捨て鉢な気持ちで顔をそむける。
「まあ、そやな。」
ややあって、近藤さんが口を開いた。
「それも、ええやろ。」
 わたしは驚いて顔を上げた。
意外だった。「甘えるな!」と一喝されると思ってた。「それでもプロか! 無責任な事
をいうな!」「試合に出られない奴もいるんだぞ!」と・・・。怒鳴られても当然だった。
なのに近藤さんはそういわなかった。
「たぶん、るりかはそう言うと思ってた。野球はそもそもガキの遊びや。楽しいないのや
ったらやらん方がええ。お前にゃ『巨人の星』は似合わんよ。」
 と穏やかな口調で言って頭をかいた。
「お前は・・・まあ『お前らは』やな。・・・女とか男とか別にしてようやってた。みんな
それを知ってる。ここでゲームを降りても誰も文句はいわん。こんな商売やからマスコミ
は色々言うヤツもおるやろうが、チームの連中は文句をゆうたりはせん。・・・ただな。」
 ちょっと言葉を切って息を継ぐ。
「野球なんか・・・と、お前がゆうてはいかん。お前がそれを言ったら、『あいつ』はお前
が『なんか』で切り捨てるもんのために、命をはった事になる。」
「あ・・・」
「あいつが何のためにケガをしたのかわからんようになるような事だけは、言わんといて
くれ。」
 そんなつもりはなかった。でも近藤さんにそういわれるまで、わたしは自分の言った事
の意味もわからなかった。・・・はずかしかった。
「・・・ごめんなさい。」
 近藤さんは何も答えず、黙って水面を見下ろしていた。
夏の終わりの川風がわたしたちの間を通り過ぎていく。
どの位そうしていたろうか。ぽつりぽつりといった感じで近藤さんが口を開いた。
「るりか・・・俺な、ここに来る前に病院によってきたんや。あいつのお母さんに会って、
一言謝りとうてな。」
 そうしたら、むしょうにこの河原の風景を見たくなったのだという。
「夢も将来の希望もあって、希望どおりの大学に進んでたあいつを強引にプロに誘ったの
は俺や。俺が誘わんかったら、大事な一人息子を、あんな目に会わせなくてすんだかもし
れん。そう思ったらご両親に申し訳のうてな・・・」
「・・・近藤さ」
「るりかが責任を感じる事はない。・・・今回の『事故』について誰かが責任を負わねばな
らんのなら、それはあいつをプロに入れた俺の責任や。」
 まるで、わたしの心を見透かしたような言葉だった。思わず、近藤さんの顔を見上げる。
近藤さんは川面に視線を向けたまま、独り言のように話しつづけた。
「あいつが、高校ん時、肩を故障したピッチャーとバッテリーを組んでた話は、したな?」
 わたしはうなずいた。
 高校時代10人しか部員の居ない弱小野球部の主将だった事。それでも一生懸命甲子園
を目指していた事。捕手として綿密なデータを駆使して強豪高校とも互角に渡り合った事。
そして、肩を痛めて名門校から転校してきた投手と親友になり、彼を再起させようと色ん
な努力をした事。
「あいつは肩を壊したそのピッチャーために一生懸命やった。ピッチャーが投げやすいよ
うにキャッチングのフォームを変えてみたり、練習も筋トレも色んな人に相談に行ったり、
本格的なマッサージの研究までやってたんや。」
 彼らしい・・・とわたしは思った。うん。きっと彼ならその友達のために一生懸命だっ
たはずだ。そんな彼だから、わたしも・・・。
「ピッチャーが肩を壊しているとなれば、試合でも練習でもあまり投げさせられん。やか
ら、投手が投げる一球、たった一つのアウトを大切に大切にする野球を目指した。」
 だから、あれほどに綿密なノートを作った。
 だから、あれほどに命がけでキャッチャーフライを追う。
 その一つ一つがピッチャーを助ける事になると信じて。
「あいつ自身やチームメイトと話してみて俺は確信した。こいつは『どんな事があっても
ピッチャーを見捨てないキャッチャー』なんやと。」
 ピッチャーは孤独なポジションだ。実際そういうのに向いている人がなるポジションだ
ッていう人もいる。・・・でも、彼ならそんなことは言わない。けして投手を「独り」にし
ない。うれしい時には何も言わないけれど、辛い時には絶対そばにいてくれる。そんな「捕
手」だった。
「プロにはそんな捕手はおらん。誰でもいい投手と組みたい。実績を残して一軍に上がり
たい。そして、新しい投手は後から後から入ってくる。『壊れた』投手はただの厄介もんや。」
 近藤さんは穏やかな笑顔で目を細めた。
「あいつは違った。俺は思った。『こんな奴が一人でもいてくれたら、俺ももう少しがんば
れたろうか』・・・てな。やからスカウトした。バッティングや肩は普通。本人にもプロ入
りの意志はなし。プロに入ったら苦労するとわかってたのに、断られた後も何度も会いに
行った。」
 近藤さんは左の肩に手をやった。たぶん無意識のうちに。以前、わたしは知り合いの記
者の人に教えてもらった事があった。近藤さんはとてもいい投手だったのだが、故障で選
手生命は短かったのだと・・・
「そんな時、俺たちは・・・るりか、お前と出会ったんや。」
 あの日・・・わたしと近藤さんが初めて会った日。彼と初めてバッテリーを組んだ日?
「お前はあいつとまるで正反対の選手やった。本格的に野球をやってたわけでもないのに
7種類の変化球を投げ分ける。ストレート投げればサイドから女だてらに135キロの『く
せダマ』なげよるし・・・投げ終わってからお前がバッシュ履いとんのに気づいた時は、
自分の目が信じられんかった。」
 近藤さんは苦笑いを浮かべた。
「・・・ところがそんな才能の塊みたいな天才少女が、実はチームに所属して野球をやっ
たことはほとんどないという。―――るりか。お前には『仲間と一緒に頑張る』という普
通の野球選手には一番当然で、それでいて一番大切な体験、いわゆる『チームプレー』の
実体験が欠けていたんや。」
 そうだ。小学校の時少年野球のチームに入っていただけで、それ以外は(ごく短い時間
を除いて)わたしはチームの一員としてプレイをしたことがなかった。壁に向って投げ込
みをやっていただけだ。
「そんな普通の女の子がいきなりプロに入ったらどうなる? 正直、俺は悩んだ。もしプ
ロ入りとなれば、史上初の女子選手。球団がどんな受け入れをするか? 他のチームがど
んな対処をするか? マスコミかて放ってはおかんやろう。大騒ぎになる。誰かがそんな
『彼女』を守らなくてはいかん。」
そして、それは『絶対ピッチャーを見捨てないキャッチャー』でなければならなかった。
けしてピッチャーを「ひとりぼっち」にしない捕手。場合によってはその投手のために、
監督やコーチを敵に回せる『騎士』でなければならなかった。ずっと、ひとりぼっちだった
投手には、とことん投手の『味方』になれる「捕手」が必要だった。
「方法は一つしかなかった。俺はるりかの『騎士』になれる捕手を一人しか知らんかった。」
 近藤さんの依頼に、彼は答えた。
『いいですよ。・・・僕が一緒にプロに行きます。僕が彼女を守ります。』
胸を張って誇らしげに、心底楽しそうな笑顔で。
『はじめてあいつを見たとき、なんて楽しそうに投げるやつだろう・・・って思いました。
僕も、あいつがプロで投げる姿を見てみたいです。プロでやれる自信なんてありません。
でも、あいつと一緒に野球が出来るなら、やってみたい。それで人生の幸運を使い切った
としても、惜しくない。』
 自分ではけっして「プロに行きたい」と言わなかった彼が、その場でプロ入りを決めた
のだ。
「・・・それが、まちがいだったんです。」
 わたしは顔を伏せたままで言った。
「・・・」
「わたしがプロに行きたいなんていわなければ」
 彼は自分の希望どおりの進路に進み、夢をかなえただろう。
「そうかもしれん。今回の事故はなかったかもしれん。けどな、るりか」
 近藤さんは空を見上げた。
「お前はどうや。」
 え・・・わたし?
「るりかは、そういう『捕手』と一緒に野球をやってみたいとは思わんか?」
「わたし、は・・・」
 思いがけない問いかけだった。そんな事は考えても見なかった。
わたしは・・・わたしだったらどうするだろう? もし、そういう彼ともっと早くに出
会っていたら。高校で、中学校で・・・もっと幼い頃にキャッチボールをしていたとした
ら、そして、もし彼がプロに行く事になったら。
 わたしは何を望んだろう? 
 近藤さんは子供たちのキャッチボールを見ながら、訥々と話しつづける。
「プロにも色んなキャッチャーがいる。最近はグランドで監督の代理が出来るような選手
が『理想の捕手』やと言われとる。打者の技術が上がり、投手の球種が増え、先発完投が
稀になり、沢山の投手を1試合に投げさせる継投が試合の帰趨を決する現代の野球では、
時にはカードをチェンジするように投手を交代させる。高校野球ですら、そうや。」
近藤さんははじめてわたしの顔を見た。
「けどな、あいつは違うぞ。ピッチャーと一緒に苦労できる。一緒に悩んで一緒に勝とう
としてくれる。あいつは絶対、投手を見捨てへんぞ。」
 時にはベンチに逆らってまでも。
「あいつは投手を絶対『ひとりぼっち』にしない捕手や。時代遅れかもしれん。プロらし
くないかもしれん。しかし、そういうヤツとお前はバッテリーを組んでみたくはないか?」
 わたしは・・・わたしは
「・・・たいです。」
 胸の奥、心の底で、その「想い」は静かに息づいていた。後悔と悲しみの全部を吐き
出して、今度こそ本当に空っぽになった胸の奥で、その「願い」は小さな星のように瞬い
ていた。もしも許されるなら ―――彼も望んでくれるなら。
「・・・わたしも、彼と一緒に野球がしたいです。」
 もし、中学校や高校で彼と出会っていたら。あるいは立場が逆だったら。それでも、わ
たしはきっと、彼とバッテリーを組む事を望んだ。 
 わたしはわたしを一番知っていてくれる彼と、常に対等の仲間で居てくれる彼と、一生
懸命になってくれる彼と、野球をしたかった。
 一緒にマウンドへ。もう一度彼と会えたら、きっと。
「もう一度・・・会いたいです。」
 近藤さんが「ぽん」と、わたしの肩を叩いた。
「それだけでいい。誰もみな自分自身に誇りを持ち、その誇りの為に体をはるし、命も賭
ける。それがプロ。『たかが野球 されど野球』やな。お前の為にあいつは一生懸命やった
かもしれんが、それも又あいつの自分自身の誇りの為。お前はそれを戦友の一人としてた
だ受け取ればいい。そして、プレイにはプレイで報いる。グランドの借りはグランドで返
すんや。」
 静かな、でも「お腹に力の入った」言葉。言葉の背景に「信念」を感じた。
「あいつを一人でプロにいれたら俺は後悔していたかもしれん。るりか、お前一人やった
ら俺はお前をスカウトせんかった。」
 そして微かに(懐かしむように)目を細める。
「けどな。お前らは俺の前に二人そろって現れた。陳腐な言い草やが『運命』やとおもた。
お前らが出会ったのは、野球の神様がくれたとびきりの奇蹟なんやと、今でも俺にはそう
思えるんや。」
 奇跡? 不運ではなく奇跡。・・・本当にそうだろうか。
 そうだったら、どんなに・・・
「迎えが来たようやな。」
 近藤さんが立ちあがった。わたしも立ちあがり、視線を上に向ける。土手の上の道にタ
クシーが止まり、二つの人影が降りるのが見えた。
「・・・近藤さんがここに来たのは、偶然じゃなかったんですね。」
 わたしは尋ねた。質問ではなく確認だった。スカウトはすでに秋のドラフトに向けて動
き出している。近藤さんも出張していたはずだ。
「京都にいた」と、済ました顔で首の筋をほぐす。「馬内先生が卒倒しそうな声で電話して
きてな。一番早い新幹線で帰ってきたんや。」
 どいつもこいつも「逆指名」「逆指名」で思うようにならん。と、ため息をつく。
「病院からおらんようになったと聞いて、迷った。この河原か、そうでなかったら、東京
へ墓参りに行ってると思った。」
 わたしが東京へ行く理由。それを近藤さんだけが知っていた。
 東京へ。考えなかったわけではない。わたしが「逃げられる」場所はもうそこしかない。
「もし、東京に行ったのなら、るりかはもう野球を辞めるやろう。そう思った。俺では、
もうお前を連れ戻せない。その時はあきらめるつもりやったんや。やけど、この河原に来
たら、お前がいた。・・・まだ、望みがあると思った。・・・あの眼鏡のコがな。今なら間
に合うと言ってくれたんや。」
「え?」
 間に合う? それは・・・
「るりかさん」
 声に振り向くと、後ろに香澄ちゃんが立っていた。
「香澄ちゃん、・・・」
「よかった」彼女は両目に涙をためていた「心配、したんですからね。」
香澄ちゃんはその胸に彼の『ノート』を抱えていた。その後ろに昌宏の姿もあった。二
人とも息を弾ませている。タクシーからここまで走ってきたのだろう。
「・・・読ませていただきました。」
 そう言うと彼女はノートの表紙を見つめた。
「この『ノート』には色んな事が書いてありました。ホントに沢山の事が。だけど、それ
は記録や戦術ばかりじゃありません。」
 香澄ちゃんの声は川面を吹き渡る風にのってわたしの心に届く。
「うれしいと・・・るりかさんと出会って、一緒に野球できるのが楽しくて仕方ないって、
そんな幸せな気持ちだけが、いっぱい書いてあります。苦しいとか、辛いとか。そんな事、
一つも書いてません。」
 彼女は、彼の『ノート』をわたしに手渡してくれた。
「この人、るりかさんと出会った事、少しも後悔してません。出会ってなかったら、きっ
とその事をこそ、後悔したと思います。それなのに・・・わたしは、るりかさんだけが一
人で後悔するって、ちょっと勝手だと思います。」
 やさしくて、きびしくて、暖かい言葉。香澄ちゃんはアメリカでちゃんと「看護婦さん」
になってきたのだと・・・あらためて納得する。
「起こってしまった事故は消せません。でも、怪我は治ります。確かに意識不明の重態で
すが、あの人はまだ生きてるじゃないですか! 取り返しのつかない事なんて、絶対あり
ません。」
 そうだろうか・・・本当にそうだろうか。
「過ぎた事を悔やむ事は、いつでもできます。でもまだ『ゲーム』は終わっていません。
最終回、最後の逆転を信じて9回表を抑えるのが、るりかさんの・・・ストッパーの役目
じゃないですか・・・」
「逆転を、信じて・・・」
 わたしははっとして顔を上げた。今「逆転」と! 
「手助けをさせてください。」
 透き通った真摯な眼差し。自信に満ちた微笑み。香澄ちゃんはわたしの手をとって、力
強く頷いた。
「わたしは、そのために帰ってきたんです。」


 その後の数時間は慌しく過ぎた。わたしはシャワーを浴び、軽い運動をし、念入りなマ
ッサージとストレッチを行った。今夜の試合に備えて体をめざめさせねばならなかったし、
一度落ちたモチベーションも上げなくてはいけなかった。
 結局、わたしが香澄ちゃんに伴われて、彼の病室を訪れたのは、ナイター開始三時間前。
病院を出る直前のことだった。

 部屋の中の様子は一変していた。さまざまな検査機器が運び込まれて、ベットを取り囲
んでいた・・・が、とりわけ目立ったのは枕元に置かれたオーディオ・セットだった。
 呆然としているわたしに白衣の香澄ちゃんはヘッド・ホンを差し出した。とりあえず、
耳にあててみると、古い歌謡曲が流れていた。・・・ラジオだ。
「午後6:00からは野球中継が流れることになります。」
 香澄ちゃんはベットの上に視線を落とした。
「この人に試合を聞いてもらうんです。」
『音』で聴覚から刺激するという方法は突拍子もないものに見えるが、実際に広く行われ
ている治療法だという。今回はアメリカのとあるシンクタンクでの研究が根拠になった。
 昏睡状態にはさまざまな症例がある。反応がないケースでも、患者には音が聞こえてい
る場合がある。このような時は日常の『音』が回復の「きっかけ」になる。本来はクラシ
ック音楽や自然の音など、あまり刺激を与えないものを使うらしいけれど、
「この人の場合は普通の音より、絶対『野球中継』の方が適しているはずです。」
と、香澄ちゃんは断言した。起きようとする意志、興味や好奇心を呼び覚ます事が出来れ
ば、覚醒する可能性が増すのだという。
 香澄ちゃんは日本に来る前に、すでにアメリカでデータや治療法の資料を準備し、事前
にこの病院に送っていた。日本側の受け入れは昌宏が、球団のチーフトレーナーの馬内先
生と相談して進めていた。わたしが眠っている間に、それだけの事を二人はやってくれて
いたのだ。
 電気を落とした暗い病室で、香澄ちゃんはわたしを振り返った。
「わたしができるのは、ここまでです。後はるりかさんが頑張るんです。」
 わたしに? 今のわたしに何が出来るというのだろう? 
 考えている事が顔にでたのだろう。香澄ちゃんはやさしく微笑んで、言った。
「すべての手を尽くしてなお、人間には出来ることがある。それは『信じて祈る』ことだ
・・・わたしはアメリカで最初にそう教えられました。」
 医学関係の人間が言うことじゃないかもしれませんが、と苦笑して彼女は目を閉じた。
 そして、ある『物語』と語り始めた。 
「ある病院に男の子が入院していました。遊びたい盛りだろうに、ベットに寝たきりで・
・・ファンだったニューヨーク・ヤンキースのゲームを聞くのがたった一つの楽しみだっ
たそうです。」
 まるでベットの子供に昔話でもしているような口調。
「そんなある日、突然、その子の病室にヤンキースの4番打者がやってきました。」
 そして、その偉大なスラッガーは自分のサインを書き込んだボールを渡して、少年に約
束した。
『俺は明日の試合でお前のために二本ホームランを打って見せる。だからお前は元気にな
れ』と。
「そのバッターは約束を守りました。いえ、少年のために約束以上の三本のホームランを
打ったのです。男の子はすっごく喜んで・・・やがて、元気になりました。」
 話終わって、彼女は静かに目を開いた。
「・・・るりかさんなら、この話、知ってますよね?」
「約束の、ホームラン・・・」
 わたしがつぶやくと、香澄ちゃんは肯いた。
 そう。これは「約束のホームラン」だ。1920年代のメジャー・リーグで生まれたあ
まりに有名な伝説。アメリカ野球史上もっとも愛されたスラッガー、打撃王ベーブ・ルー
スの逸話(エピソード)だ。
10回の内3回打てば一流と呼ばれるのがバッティング。打席は1試合平均3回。年間
140試合に出場すれば、だいたい400回打席に立つことになる。そんな中で50本ホ
ームランを打てたなら、タイトルを手にする事だって出来る。それが「ボール・ゲームの
常識」。
 さらに、その「明日の試合」とはガージナルスとのワールド・シリーズ。ただの試合で
はない。リーグを代表するエース・ピッチャーが相手なのだ。なのに、にもかかわらず、
彼は歴史に残る一打を、アメリカ中が見守る中で、打って見せた。
「最高のゲームがスタジアムの外で奇跡を起こす・・・これはベースボール・アスリート
の・・・あなたたちの『伝説』です。」
彼女はわたしの手からヘッドホンを受取り、彼の耳にかぶせた。
「奇蹟は起こると信じてください。あなたの『一生懸命』をこの人に届けてください。・
・・祈りは届く。願いは叶う。そう、信じてください。」
 香澄ちゃんはわたしの両肩に手を回すと、痛いくらいにぎゅっと抱きしめてくれた。
「大丈夫。るりかさんの『想い』は、きっとあの人の心に届きます。」
「・・・うん。」
 ありがとう。香澄ちゃん。
 声にならない感謝の言葉を、わたしは彼女の背に回した手に込めた。
「うん。わたし、行って来る。」

 試合直前。ミーティング・ルームにベンチ入りの24人が集められた。そこで初めて彼の
症状がチームメイトに伝えられ、その後、あのとんでもない「治療方法」についても説明
があった。
「今、あいつの頭にはヘッドホンが付けられている。今日のゲームも聞いている。」
 咳一つ聞こえない、静まり返ったミーティング・ルームに、監督の声だけが淡々と響い
た。
「俺たちはベーブ・ルースじゃない。・・・だが、一生に一度くらい、そんな試合をやる
のもええやろう。」
 緊張と当惑、重圧と高揚。さまざまな感情が一人一人の隙間を駆け回る。
「なお、このゲームに関する全てについて緘口令を敷く。この事についてはマスコミに対
しては一切伏せる。あいつが目を覚ましたら、好きなだけ自慢すればよい。 ―― そう
いう『ゲーム』を、俺たちはこれから、やる。」
 次の瞬間、監督の口調が変わった。見る見るうちに顔面が高潮する。
「ハートに届く『ゲーム』をやるんだ・・・俺達の『ゲーム』であの野郎をたたき起こせ!」
 監督の『檄』が飛んだ。試合前のミーティング・ルームに鬨(とき)の声が上がった。
戦いが始まった。奇跡への挑戦が始まったのだ。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 悲鳴と歓声。声援と野次。全ての声が交じり合って天井から降ってくる。
 わたしは大きく息を吸った。
 長い一夜を経て、わたしはもう一度この場所に来た。彼がともに立つ事を望んだグラン
ドへ・・・ともに守ると誓ったマウンドへ。
ここで、わたしは彼に呼びかけを送ろう。精一杯を、一生懸命を彼に届けよう。
 たった、一人で・・・でも、今はただ・・・
 ただ、一度の奇跡を信じて。
 捕手が守備位置についた。主審が手を上げる。・・・よおしっ! 試合再開だ!




(第三話 完)





あとがき

第三話 長老のあとがき

「るりすと」Wの第三話、(全九話になります。)
 いえ、長老もまさかこんな事になるとはおもわかなかったのですが。
ともかく三話目にして「るりか復活」編です。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
 登場人物をいじめるのはしんどいです。だいたい、ゲームのSSは、ファンが気に入った
ヒロインを書くのですから、ボロボロになって悩んで傷つくシーンなんて書きたくありません。
それでも書く理由があるとすれば、最後の笑顔をより輝かせるためでしょう。
 最後に笑って、ついでにちょっとでも成長していてくれたらいいのですが。 
 
なお、この物語の中で、ベーブ・ルースの「約束のホームラン」が医療の現場でたとえに使われているという話は、
医学関係の知人から教えてもらった実話です。その人はこんなところでこんな風に使っているだなんて
夢にも思っていないでしょうが。

本編もあとがきも、次回に続いたりします。(笑)
でも、次のお話はちょっと傾向が違います。
                                長 老 頓 首





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