センチメンタル・ストッパーVI
〜 スタンド・レポート(観客席の風景)その1 〜
| 第六話 長老前説 第六話。「グランド外の風景」第二作。登場人物が選手でなくなっております。 ゆえに「スタンド・レポート」。 第四話と同じく、いくつかの小話から成り立っています。 1 都 内 9月3日 午後9時 2 都 内 9月4日 午後2時 3 大 阪 9月4日 午後6時 4 京 都 9月4日 午後6時 5 ナゴヤドーム 9月4日 午後6時 6 病 院 9月4日 午後6時30分 7 ナゴヤドーム 9月4日 午後7時15分 8 成田空港 9月4日 午後7時20分 の8編。 それぞれに意味があり、それぞれに問題もあり、それぞれに思い入れもある。 そんなお話です。 |
| 1 都 内 9月3日 午後9時 都内。とある高級レストラン。黄昏色のキャンドルを囲んで、一組の夫婦と彼らに招か れた若い女性が席についた。 「本日はお招きありがとうございます。」 女性は会釈して、招きに対する謝辞を述べる。明るいブラウンをベースにしたシックな スーツ。銀色のチタンフレームの眼鏡がろうそくの光を「ちかり、ちかり」と跳ね返して いる。 「遠征の後でお疲れじゃありませんか?」 ホスト役の男はやわらかい微笑みを浮かべて手を振った。 「いやいや、僕は他の連中と違って試合中ずっと座っているだけやから。」 おだやかな「関西」のイントネーション。少しトーン高めの声は耳障りがよく、聞きと りやすい。明るいグレーのスーツを身にまとう知的な壮年の紳士である。三十半ばを過ぎ ているはずだが、やはり縁なしの眼鏡をかけた顔はどちらかといえば童顔で、表情は若々 しい。そんなに大きく見えないが、がっしりとした体つきをしており、挙動はいかにもス ポーツマンらしく、きびきびと律動的。だが、彼はただのスポーツマンではない。日本ス ポーツ界屈指のトップ・アスリートであり、史上最高のプロ野球選手の一人である。普通 の店に行けば、サインを求める人で列ができる。が、このレストランではそんな「野暮」 な事をする客は居ない。 「水彩画、届きました。ありがとう。」 夫人が客に話し掛ける。こちらは訛りの無い綺麗な標準語。 「わたしあんなにきれいな神宮の森、初めて見たわ。ほんとに絵が上手なのね。」 「おいおい。失礼やな。そりゃあ、芸大生に向っていう事とちゃうぞ。」 男が嗜める。夫人は少女のような仕草で肩をすくめてちょっと舌を出した。 「あらやだ。ほおんと、ごめんなさいね。」 「元アナウンサーがそんな事でええんか。」 「あら、民放じゃ、このくらいの方がウケるのよ。あなたも将来のために勉強しておけば?」 夫婦漫才のようなやり取り。眼鏡の女性は羨望のこもった眼差しでそれを見ていた。 夫婦とこの女性との交流は、神宮の森を散歩中の夫妻が、スケッチをしていた彼女と出 会い、散歩の度に話し掛けるようになった事から始まった。やがて彼女が都内の芸術大学 に通う画学生であるとわかった。女学生は夫人にその時スケッチしていた風景を水彩画と して仕上げて贈ることになり、夫妻は感謝の気持ちを込めて今夜、行き着けのレストラン に招いて食事をする事にしたのである。ただ夫はプロ野球選手で一年中『出張』している ようなものだった。この日もちょうど広島で試合があった。食事会はデーゲームを終えた 彼が飛行機で東京へ戻ってくるのを待っての事になり、3人がレストランで会った時には 午後9時をまわっていた。 ワインが運ばれてくる。しばしの歓談。絵や学校生活の事が話題の中心で盛り上がる。 しかし、メインの肉料理が来た所で、夫が眼鏡の女性に問い掛けた。 「今日の試合、どう思った?」 「もう、仕事の話?」と不満そうに言いかける妻を制して、言葉を続ける。 「録画はしてあるけどまだ見てないんや。まずは君の意見を聞きたい。」 実は夫婦と眼鏡の女性の交流は絵を通じてだけのものではない。きっかけは彼女が神宮 での練習を見学に来た時だった。彼女は数回スイングを見ただけで、彼の微妙なバッティ ング・フォームの狂いを指摘した。当時、調子を落としていた彼は、このアドバイスをき っかけに本来のバッティングを取り戻し、結果的にチームはAクラスに踏み止まる事が出 来た。その後もこの女子学生はこと野球に関して、いくつかの卓見を示し、彼は機会を見 つけては彼女の意見を聞くようになっていた。 「今日は九回アタマからの登板でした。相手の5番6番7番に対して、計13球を投じて、 内訳は変化球が7、ストレートが3の割合。ですが、問題の『るりかボール』は一球もあ りませんでした。」 試合とは今話題の女性投手が登板したナゴヤでの三連戦の第二戦(9・3)。それについ て語る彼女の口調は滑らかで、一瞬の停滞もない。理路整然として、はきはきと論旨を展 開する。身にまとうスーツの印象からか、有能な秘書がスケジュールを説明しているよう な印象があった。 「おそらく」 ナイフとフォークを置き、居住まいを正して、彼女は答えた。 「あの若いキャッチャーはある程度、るりかボールを捕れるのだと思います。」 「うん。」 「三連戦の緒戦は相手の錯覚も利用して『るりかボールはない』と思わせた。」 「うんうん。」 「そして第一戦のポイントで『るりかボール』使い、第二戦は『るりかボール』をあると 思わせる。・・・ところが実際にはあると見せて他の変化球で早めに追い込み、投げない。」 「そのとおり!」 我が意を得た! と男は膝を打った。 「実際にるりかボールを投げたのは第一戦だけ。いいところで使って見せてその印象を焼 き付け、第二戦は別のボールを勝負ダマに使う。三連戦全試合を見越した配球や。」 「はい。」と小さくうなずく眼鏡の女学生。 「となると対戦相手はどうすべきやろか?」 「今の方法を続行するしかないんじゃないでしょうか? 相手は連投の技巧派変化球投手 です。球数を投げさせて消耗を誘い、制球と球のキレを奪う。非情なようですが、待球戦 法が一番有効です。ただ、今の所は指示が徹底していないように見えます。」 彼女はチームの内情にまで踏み込んだ。だが意見の一つ一つが的を得ており、表現は適 切で無駄がない。恐るべき観察眼そして分析力である。 「チーム単位での作戦の実行、統一、そして方向修正が難しいのは、ベテランが多い所為 や。あのチームの宿命やな。コーチの指示どおりに選手がうごかへんのは。」 男の言葉に眼鏡の女性がうなずく。 「しかし、いずれ方向は修正されると思います。元々選手個々の実力・経験、そして対応 力はずば抜けたものがあります。それぞれに何かしら突破口は見出すでしょう。この上、 あれだけの戦力があるチームが勝負に徹するとなれば、相手は辛いと思います。」 「そんなことはDのベンチもわかっとるやろう。」 そんな学習能力抜群の相手に「勉強」の機会を与えてはいけない。相手は経験豊かな超 一級のプロだ。いずれ配球は読まれるし、ボールにも慣れてくる。このままでは手品師が 「タネ」の解説をしながら舞台に上がっているようなものだ。 「この連投は無茶や。何を考えてるのかさっぱりわからん! 万が一打たれでもしたら、 せっかく植え付けた『苦手意識』まで無くなってしまう。」 「・・・」 「その上、山本るりかはすでに五連投。昨日は二回と三分の一。今日も一回を投げてる。 あきらかに登板過多や。球威は落ちてるし、多分体にもガタが来てる。壊れるのを覚悟で 投げているとしか思えん。」 「実は、一つだけ、理由が考えられるのですが。」 「なんや?」 「それは」 それまで淀み無く答えていた彼女が初めてためらった。自分の意見に自信が無いのでは ない。(彼女は確信のない事をクチにしたりする子ではない。)彼女の様子はここ数日変だ った。妻からの電話でその事を心配に思った男は急遽予定を変更して帰京し、彼女を食事 に招いたのだ。男は静かに、やさしく問い掛けた。 「僕らは君に絵を貰った。色々楽しい話も聞かせてもらった。折角出来た友達の力になれ るのなら、手伝いたい。悩みがあるのなら、話してくれんか。」 その言葉に女学生は「ありがとうございます」と小さく礼を述べた。 「わたし、調べたい事があってインターネットであちこち病院関係のチャットを見て回っ たんです。」 「病院?」 「わたしは、事故などの衝撃で昏睡状態に陥った人を覚醒させる、という治療法を探して いたんです。」 検索の結果、彼女は一つのサイトにたどり着いた。その研究は、アメリカのあるシンク タンクで行われていた。それは音楽や小鳥のさえずりなど自然の音を患者に聞かせて覚醒 を促す治療法だった。だが、その時、意外な事もわかった。研究と情報収集はアメリカの シンクタンクがやっているのだが、研究資金は日本の財閥系の私立病院からでているのだ という。 「最近の治療例で極度の鬱状態にあった患者に対してこの治療を試みて、状態が改善され るという結果がでたんです。やはりそれは日本の私立病院で、偶然から野球中継を聞かせ たところ患者が反応して、以来、野球中継を聞かせていたそうです。・・・もし、同じ治療 法を名古屋の病院でやっているとしたら」 「まさか・・・それじゃあ」 口元に手を当てて、夫人が言った。 「山本るりか投手は、昏睡状態にあるチームメイトを目覚めさせるために無茶な登板を繰 り返しているというの?」 「推測の域をでませんが」 「何で公表しないの? 美談じゃない! きっと世間だって味方になるわよ!」 「それを嫌がっとるんや。」男は妻の言葉をさえぎって首を振った。「プレッシャーで身体 が動かんようになるし、それに」 「それに?」 「たぶん意地もあるんや。それを公表して試合をすれば、相手もやり難くなる。そんな試 合をして勝ったとしてもその選手を覚醒させることは出来ない・・・そう考えてるんやろ な。意地っ張りが多いからな、あのチームは。」 「・・・・・・」 眼鏡の女学生は静かに面を伏せた。今の彼女には何も出来る事は無い。心配してくれる 夫妻の好意に甘えて話しては見たが、話したとてどうしようもない事も承知していた。今 彼女にできるのは、ただ、『奇蹟』を信じる事だけ。・・・友の為に。 そんな彼女の様子を痛ましげに見ながら、しかし男は別の事を考えていた。 やはり、彼女は「野球」を知っている。そして「山本るりか」を知っている。 あの「20世紀最後の奇蹟」と呼ばれた天才女性選手と確かな因縁でつながっているの だ。 彼は己の直感が確信に代わるのを自覚していた。 2 都 内 9月4日 午後2時 東京。ビル街の片隅。地下の店。申し訳程度のカウンター席と、三つ四つのボックス席。 小さなステージにアコースティク・ギターが一本、ぽつんと所在なげにスポットライトを 浴びている。 そんな場末のプール・バー。開店前の一風景である。 この店にはカラオケがない。歌は専属のミユージシャンが伴奏する事になっていた。ミ ュージシャンが休みの時は伴奏もBGMもない店になる。(亭主のこだわりである。) 「今年はセリーグはGで決まりか・・・盛り上がりが無いなあ。他のチームは情けない。」 テレビでスポーツ・ニュースを見ながら、店の亭主とバーテンがグラスを磨きながら、 話している。どこのチームも優勝めざして必死だし、べつにただ「盛り上げる」ために闘 っているわけではない。ファンというのは勝手である。 「どうかな。勝負は終わるまでわからないよ。」 その声は一番奥のボックス席から聞こえた。光はほとんど届かない。したがって、そこ でむくっと体を起こした人物の姿はカウンターのマスターからは見えない。ただ、その声 で若い女とわかる。この小さな店の第三のスタッフ。専属ミュージシャン(といっても一 曲1500円のアルバイトだけど)にしてステージ上のギターの主(あるじ)。 「あれ『姉御』はホークスじゃなかったの? 福岡出身だし。」 アルバイトのバーテンの青年が声をかける。 「さてね。」と、『姉御』は小さくあくびをした。 「覚えてないよ。そんな昔のことは。」 言って、再び横になる。昨夜は夜通し工事現場でバイトだったし、その上朝からバンド の練習だった。眠れる時に眠っておかねば体がもたない。眠りに落ちる寸前、彼女は薄く 自嘲の微笑みを浮かべた。 昔の事だ。今頃思い出してどうなる。二年前も十年前も過ぎてしまえば同じだ。 「忘れちまえばいいのに」目をつぶって呟く「そうすれば、もう少し楽に生きられるよ。 そうだろ? るりか・・・」 ストッパーは気持の切り替えが大事だよ。そういってたのはあんたじゃないか? だい たい、あんたは、さ・・・あんたってコは・・・ 「ストッパーをやるには・・・センチに過ぎるんだよ。」 3 大 阪 9月4日 午後6時 「おおい、おばちゃん。・・・いつものやつ」 『おこのみ おたふく』と紺に白の文字で書かれた「のれん」をくぐって、若者が入って きた。カウンターのいつもの席に座る。この席が神棚の隣に置かれたテレビを一番楽に見 られるのだ。・・・が、しかし、 「あれ、めずらしい。なんで中日・巨人なんや。今日は甲子園で試合があったんとちゃう か。」 「わるいね。今日はあれ、つけといてえな。孫があれを見たいちゅうんや」 小さなボールに一人前の材料を放り込み、手早く来まわしながら、カウンターのおばあ ちゃんが言った。 「お嬢が?・・・ほな、ま、しょうがないなあ。」 どうせ(例年どおりに)消化試合だ。名将と名高い監督は九月もはじめから「来季を見 据えた」用兵をやっている。ああビールが苦い。 「聞こえてないと落ち着かんらしいねん。うつつで仕事にならへん。」 「けどなあ、おばちゃん、無理さしたらあかんで。」 自称常連の若者は訳知り顔で声をひそめた。 「シドニー・オリンピックの代表候補を店員につこてるなんて知れたら・・・ああ、そう か! マスコミが群がってええ宣伝になるか。なるほど! さすが」 けけけと小悪魔のような笑い方をして、うんうんとうなずく自称・常連。 豚玉を鮮やかな手つきでひっくり返しながら、店主の老婆は「アホか!」と一喝した。 「昔ッから『おたふく』は、お好みの味で売ってるんや。孫の人気なんぞ借りんわい!」 4 京 都 9月4日 午後6時 京都東山の北隅。旧財閥系の当主が別荘や居宅を構える京都屈指の高級住宅街の一角に その邸宅はあった。重厚な構えの門の奥には数寄屋造り本宅。広大な庭に配された石や松、 花はどれも吟味を尽くされており、又人の手によって細かな点まで行き届いた手入れがな されている。敷地内はさらに白壁の蔵、茶室などがある。そして木立の影に切り妻の瓦屋 根を見せているのは、代々の当主が「家芸」として精神修養の為に稽古するという弓道場 である。単なる「富豪」とは一線を画するこの風格はこの屋敷の主が、関西屈指の名門の 当主である事に由来している。 その庭の一隅に一棟の「離れ」がある。日も落ちたと言うのに灯りはない。 ただ、障子越しに野球中継が漏れ聞こえた。 一人の男がその離れの前に現われた。膝をつき、障子越しに呼びかける。 「失礼いたします。」 音もなく障子を引く。部屋には一人の女性が居た。調度品もない寒々とした部屋の中央 で、ただ一つ置かれたテレビの前に正座していた。白々とした光で、彼女の姿は闇の中に ほの青く浮かび上がって見えた。白皙の頬。みどりの黒髪。真紅の唇。御伽草子の絵巻か ら抜け出してきたかとも思われる美女。だが、それだけではない。 彼女は実に正しい姿勢で座っていた。美しい正座である。完全な自然体を保ちながら、 一点の緩みもない姿勢。「自然体」こそは武芸の基本であり、同時に到達点である。道の何 れかを問わず、武の道において美しさとはすなわち「力」。この二十歳を出ていないとおも われる女性は、その若さにもかかわらず、水晶のような自然体でそこにいた。 男は平伏の姿勢のまま、告げる。 「お嬢様。お食事のお時間です。御前はすでにお待ちですが。」 沈黙。部屋には相変わらず、野球放送が押さえた音量ながら、不似合いな喧騒を撒き散 らしている。 ややあって 「中嶋さん」 と、彼女は男の名を呼んだ。そして、鈴を振るような可憐な声で言った。 「おじいさまに申し上げてください。わたくし、本日は御夕食をご一緒できそうにありま せん。」 男は深く一礼し、障子を閉じた。 再び部屋は深い静寂につつまれた。 ただ、かわらず、野球中継が流れつづけていた。 5 ナゴヤドーム 9月4日 午後6時 試合開始直前のナゴヤドーム。その解説者ブース。 その男は携帯を取り出し、電話をかけた。数回のコール音を経て相手が出る。 『はい。』 感情を抑えた静かな声・・・『彼女』だ。 こちらが名を名乗るとわずかに、声が固くなるのがわかった。 『お話はスカウトの方から伺いました。でも、わたしは・・・』 「いや、この仕事が終わったら、わたしも広島に帰るんだ。時間をくれないかな。30分・・・ いや、15分でいい。」 畳み掛けるように言葉を重ねる。交渉事は呼吸が肝心だ。タイミングを逃すとすべてが 終わってしまう。 『お断りしたはずです。これ以上は・・・』 きっぱりとした話し方をする娘だ。迷いがない。一言一言にはっきりとした意志を感じ る。男は静かな声でなおも食い下がった。 「そう急がずに、もう少し考えてもらえないかな。これから解説の仕事があるんだ。テレ ビだから3時間くらいだね。・・・その後で。」 「どうしてですか?」 声の調子から察するに、当惑はしているようすはない。警戒を含んだ慎重さが感じられ た。頭がいいだけではない。相手の思惑を察する鋭い感性がある。 「この試合、君も見るんだろう? 友達の・・・いや」 男は切り札を出す事にした。これ以上探り合いをしても信頼関係を損なうだけだ。 「なにしろ、君の元チームメイトの試合だからね。」 「・・・待っていただいても、わたしの返事は変わらないと思います。それに」 「それに?」 「彼女は、今日、投げないと思います。」 「どうしてかね?」 「彼女はもう限界を超えています。彼女は自分自身のコンディションがわかる選手です。 そして、何より人に迷惑をかけたり、期待を裏切ったりする事を嫌う人です。」 「なるほど、力及ばないときは自ら舞台を降りるか・・・さすがに仲間の事は、よくわか るようだ。実に興味深いね。」 やはり、と男は心の中で呟いた。やはり、彼女は自分の『チーム』に必要だ。 「わたしは、彼女はマウンドに上がると思うよ。」 「それは・・・上司の命令だからですか。それともチームのためですか。」 声の調子が一転する。氷点下、いや絶対零度の痛みさえ伴う言葉。束縛も服従も拒否す る強固な自尊心。彼女は誇りたかい野生の狼。おとなしそうな顔して、どうしてどうして、 案外じゃじゃ馬だ。 「ちがうね。彼女を駆り立てるのは、言うなれば、プレイヤーとしての業だ。」 「『業』?」 「そう・・・ユニフォームが導く宿業。言葉で説明するのは難しいな。」 「・・・・・」 「さあて、世紀の一戦だ。悪いが切るよ。では、試合の後で。」 6 病 院 9月4日 午後6時30分 最後の天王山。ナゴヤドーム首位攻防三連戦。その最終戦が始まった。 それを聞きながら、今中香澄は持ち込んだ私物のノートパソコンの画面をぼんやりと眺 めていた。 方法論に間違いは無い。患者の様子は今の所、変化が無いが、一昨日、昨日とるりかの 登板と共に、脳波や心電図に変化が起こった。彼女はその事を電話でナゴヤドームに知ら せた。だが、彼は結局目覚めなかった。るりかは三連戦の第2戦に二回3分の2も投げた のに。 ここにいたって香澄は大きなジレンマに突き当たる事になる。データを見る限り、るり かの登板が覚醒につながるのは確かだ。しかし、今日の登板で患者に反応が出た時、るり かに伝えるべきかどうか? 彼女はきっと投げる。己の体、投手生命、いや自分自身の命 さえも引き換えにして投げるだろう。彼女の体は限界に近づいている。それでも投げてし まうのだ。香澄が一番その事を知っていた。 「・・・・・」 患者を目覚めさせるためにるりかを投げさせるか? いや、るりかが投げたところで目 覚める確証はない。それ以前に、覚醒しないまま、るりかが投げられなくなったら? 全 ての努力と、彼女のプロ野球人としての将来を費やして、それでも『彼』が目覚めなかっ たら。 香澄は頭を振って立ち上がった。病室の窓を開け、空気を入れ替える。 香澄はインターネットでこの治療法を見つけたときのこと思い出していた。 あてもなく掲示板やチャットを渡り歩く中で、ある女性が声をかけてくれた。その女性 は香澄に音楽療法を行っているシンクタンクの存在を教えてくれ、そしてその療法が日本 の病院で成果を上げた事を伝えてくれたのだ。 その病院では重度の鬱状態にある女性の患者が居いたのだという。その患者に音楽や小 鳥のさえずりを聞かせていた。その患者は、強い精神的なショックを受けてしまって、以 来ほとんど会話も表情も無くしてしまっていたが、偶然耳にしたラジオに強い関心を示し て、その病院ではラジオをその患者に聞かせるようになった。 やがて、特定のラジオ番組に反応することがわかって・・・それが野球中継。それも特 にるりかが投げている試合だった。 『信じて欲しい。』 『彼女』は香澄にそう言った。 『信じる事が全ての始まりだから』 香澄は自嘲した。 『彼女』とはいうが、なんとなく香澄がそう思っているだけで、実は違うかもしれない。 そもそもハンドルネームだけでは性別などわからない。 『AKIRA』なんて、女性よりは男性向きの名前じゃないか。 7 ナゴヤドーム 9月4日 午後7時15分 ナゴヤドーム。外野席。出口近くに車椅子の女性が観戦していた。だが、それほど熱心 なファンとも思えない。白いワンピースに淡い色のカーディガン。怒涛のような声援の中 で彼女だけが深い沈黙を守っている。付き添いらしい看護婦と白衣の医師は戸惑ったよう に周りを見回しながら、ハンカチで汗を拭いている。 唯一毅然と立っているのは、車椅子を押している女性だけだった。深い青のデニムのシ ャツとジーンズ。ショートの髪を無造作にくくっている。実用一点張りの飾り気の無い姿 で、実に甲斐甲斐しく車椅子の病人の世話を焼いている。うすくそばかすが残る顔にはま だあどけなさえ感じられるが、仕草や心配りの一つ一つに「やさしさ」と「おもいやり」 が溢れていた。 そんな彼女がひざ掛けを整えて立ち上がった時、反対方向から歩み寄ってきた女性がい た。同じくらいの年齢、恐らく二〇歳を出ていない。粋な柄物のブラウスとミニスカート。 サングラスをかけているが、何故か横浜ベイスターズのベースボール・キャップを被って いた。その女性は黙って、ハンカチを差し出した。 「あ、ありがとう。」 「こんなにいるんだね。ドラゴンズ・ファンて。おどろいたあ。」 「わたしも、びっくり。青森なんてテレビ放送、巨人戦しかないし、学校でも巨人ファン とアンチ巨人ファンしかいなかったら、意外で。」 さりげなく失礼な会話を交わす。どうやらこの二人もドラゴンズ・ファンではないらし い。 「すっごい音だねー。」 サングラスの女性が言った。 「ラジオとは迫力が違うね。これならきっと効くよ!」 「・・・だと、いいけれど。」 「絶対! わたしの歌や『彼女』のバイオリンはだめだったけど・・・」 「・・・そんなこと、ありませんよ。ただ」 サングラスの女性は首を振った。 「事実だよ。」 二人の間に気まずい沈黙が流れた。 「わたし、今でも不思議なんです。なんでこの人が」 と、付き添いの女性は車椅子の傍らに屈み込み、車椅子の女性の顔を見た。そこにはどん な表情も浮かんでいない。 「・・・なぜ、るりかさんの出ている試合にだけ、反応するのか。」 ややあってサングラスの女性が、ぽつり、と言った。 「忘れちゃわないといけないのかも。」 そして、サングラスを外して、グランドの方へ目をやった。 「忘れて次の恋や人生を探さなきゃいけないのかも」 「そんなこと!」 「でも、そうしなきゃいけないって、みんな心の底では思ってる。だから」 「そんな事出来ません!」 付き添いの女性ははげしく頭を振った。 「そんな、こと」 「・・・そだね。」 そう言って、彼女は再びサングラスをかけた。 「あたし、るりかちゃんも忘れてないと思うんだ。忘れられないから、たぶん、あそこに 居るんだと思う。」 再び沈黙。回は六回、先発投手がヒットとフォアボールでピンチを迎えている。選手交 代のコール。審判に告げられたその投手の名は・・・。 「あたし、なんだか、胸騒ぎがするんだ。」 「ええ、わたしも」 そう答えて、立ち上がる。二人でグランドを見る。 「今日、ここで何かが起こるような気がする。」噛み締めるように付け加える。「何か が、・・・とても大切な事が。」 車椅子の女性が、微かに、本当に微かに視線を動かした。 何か探すように。何かを、思い出そうとするかのように。 8 成田空港 9月4日 午後7時20分 飛行機の時間が近づいていた。彼女はいつもVIP専用のラウンジでその出発までの短い 時間を過ごす。バックから携帯を取り出し、いつか打ち合わせのメールを送り、その後で 三箇所、ごく個人的なアドレスを呼び出す。相手は北大獣医学研究所と東京のオカルト専 門の出版社、そして、同じく都内の私立病院。日本を離れる自分の代わりに『仕事』を引 き継いでくれるはずの『仲間』たちへ。 すべてのメールを打ち終えて、ようやく彼女は机の上の飲み物に手を伸ばす。 もう、できる事は何も無い。後は『信じるだけだ』。 時間が来た。 かたわらのバイオリン・ケース、自らの「半身」とでも言うべきそれを手にして、彼女 は席を立った。が、その時、ラウンジのテレビから信じられない放送が聞こえた。 『驚きました。投手交代です。審判に告げられた名前は山本るりか! 』 まさか! と、彼女は耳を疑った。 まだ6回なのに! 「山本さん・・・」 彼女は思わずこぶしを握った。 「あなた、まさか・・・」 アナウンスが国際便の出発時刻を告げていた。時間はあまり無い。 |
あとがき
| 第六話 長老のあとがき 「るりすと」Wの第六話(全九話)です。 とうとう、やってしまいました。この第六話に関してはまだ迷っています。このままで いいのか、いけないのか。 他11人については、ほのめかし程度になっています。小説やジャーニーの脇役の方や、 さらにプロ野球関係者も出てきておりますが、出来る限り固有名詞をさけました。ぼやか して劇的な効果を出そうとしているのではなくて、全部説明するととても書ききれないと 思ったからです。 つぎから本題に戻ります。(なんて長い寄り道。)この第六話も後で決着をつけます。 よければ、続きも読んでやってください。 願わくば、みなさんの御目が疲れません様に。 長 老 頓 首 |
