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緩やかな斜面を吹き上げる夏風に、草たちがざわめきを立てながら揺れる。
着地点から弾かれるように舞う蝶が、目の前で蛇行しながら飛び立ってゆく。
その黄色の両羽の動きが、まるであの日見た星のように見えた私を、キミは感傷的過ぎると笑うかい?
人に依っては風光明媚と賞するだろう、眼下に移る町並みとその向こうの深青の海も優の狭い視界には
その輝きを残すことはなかった。シネスコサイズのその視界は、彼の済まなそうな、しかし
真摯かつ明確な意思を秘めた瞳を写していた。
――その唇から零れ落ちる言葉を、どんな気持ちで聞いていただろう――
悲しみ?
思いを遂げることのできなかった無念?
行き場のない、昇華させる術のないやるせなさ?
それとも――怒り?
やっと、キミと再び出会えたのに。
やっと、止まったままの時が動き始めたのに。
満たされる喜びを抱えながら、未来へ歩んで行けるはずだったのに。
けれどキミには、続いて行く未来を、共に歩みたい誰かがいた。キミの心の中から私を追い出した、
顔も知らない誰かがいた。その誰かに、私は言葉にならない憎しみの言葉を投げつけていたのだろうか?
私を受け入れてくれないキミを、心の何処かで裏切り者と呼んだのだろうか?
思いを巡らせれば巡らせるほど、石のような重みが心臓を締め付けるように圧し掛かる。
……違う!
キミは変わらず優しくて、誠実だった。何時だってキミを振りまわしてしまう私にも、
出会った頃と変わらない優しさで、同じ物を見て感動し、心を通わせてくれたんだ……。
けどそれだって、私の勝手な思い込みでしかないんだね……。
たとえ同じモノを見ていたとしても、私たちは、必ずしもあの日の……出会った頃のままじゃ、
ないんだよね……。
だから。
キミがくれた最後の優しさを、裏切りなどと呼ぶ事が、どうしてできるだろう?
照りつける陽射しが強いほど、清清しい気分になるなどと言ったのはどこの誰だろう?
暑い空気をかき混ぜるだけの風が、優の額にうっすらとに滲んだ汗を拭うように撫でた。
両手を伸ばしながら立ちあがり、見下ろす街の風景までは、一気に駆け下りたくなるような
風に波打つ草原が続いていた。優は両手を斜め後ろに構え、軽く屈伸運動のような姿勢を
とり、軽く呼吸をした。その行為に何らの意味があるとは思えない。束の間の爽快感どころか、
普通に考えれば転げ落ちて怪我をするのがオチだとも思う。しかし優の両足は、その広く
緩やかな坂を全力疾走で踏みつけて行く事を望んでいたし、優の両手は鳥の翼の如く風を
切りながら羽ばたく姿をくっきりとイメージしていた。その姿勢のまま瞳を閉じ、彼の姿が
見えなくなるまで、耳だけで広がる草の色を、風の音を、雲と太陽の高さを感じ取る。
『もっと……いや、もう少しだけ……今、この場所に流れている空気と……ひとつになれるまで……』
出会いの夜。最高の夜と呼んだ日。
ほんの少しの、二人の夏休み。同じ時間、同じ景色を誰かと共有したいと、初めて思った。
夏の終わりの、突然のさよなら。約束の場所に残された言葉を、次なる約束の印と信じて。
キミがいた季節はいつでも足早に過ぎて。
キミと過ごす時間は、いつでも足りないと感じて。
キミが歩くのが速いから、いつもより駆け足で、その背中を追いかけてた。
ソウ、リョウアシヲコウシテカゼニトケコムホドハヤク、ハヤクウゴカシテ――
緑の中を、白地に赤のラインが入ったスニーカーが走り抜けて行く。
ショートパンツから伸びる脚が陽の光を弾きながら、左に右に蛇行する。
まっすぐ駆け下りないことに意味はない。距離を長く走れば、無意味な行為にも
何がしかの意味が見出せる、そう思っただけのことだ。両腕は気を抜けば崩れ落ちそうな
全身のバランスをとることなど考えずに、紙飛行機のように風の合間を泳いで行く。
「飛べる!」思わず、優は叫んでいた。なんの装備もなく、人がこの星の重力の戒めを
解き放つことなど不可能だ。しかしこの瞬間この地上で、優ほど真に自由な人間がどこにいる
だろうか?そしていま、私はキミへの絡み付く茨のような想いから、この世界で最後の戒めから
解き放たれるためにここにいるのだから……!
優は、もう一度叫んだ。「今なら、飛べる!」
――草花の上を滑り、向かい風に両の翼を乗せ、勢いをつけながら全身を真夏の大気の中へ――
蜃気楼のように生じた錯覚のあとは、鉄板のように暑い地面に全身を打ちつけながら
転がり落ちてゆく感覚だけだった。指先を広げて、なんとかすべり落ちて行くその身を守るように
手を伸ばした。
※ ※ ※
優の視界のなかで、白い雲が風に千切られ、その形を万華鏡のように変えていた。
……変わってゆくモノ。
……決して変わらないモノ。
ひとつだけ言えるのは、二人を囲繞する環境だけは、間違いなく変わっていたことだ。
「それを、どうしようもないこと……って、諦めるのは……悔しいけどね」
口元にいつもの笑みを浮かべる優は、茨に引き裂かれた傷の痛みも忘れていた。
夏はじきに終わりを告げ、星の綺麗な季節がまた巡るだろう。
それならば、せめてキミがそばにいた日の輝きを永遠に刻み込める星を、その中に
ひとつだけ探そう。
……キミと出会った、この場所で。
了
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