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〜 協演時間:4分08秒 〜



「ねぇ……あなたは礼儀正しく、善意の方だって聞いたんだけど、その嗅覚で知り合いを捜す手助けをしてくれないかしら?」

 とある駅構内、エスカレータ横でキャスター付きの旅行鞄に腰掛けている少女は、自分の横で同じように旅行鞄に座っている人物に訪ねた。しかし、話かけられた方は視線を目の前の行き交う人々を向いたまま、沈黙を通している。

「無償ではダメ?なら、あなたの好物のマーマーレードサンドイッチをご馳走するというのはどうかしら?それも私の手作りで」

 "成功報酬"を提示したものの、相手が無言を通していることに少女は溜息をつき、話し相手の見つめている雑踏を眺めながら呟いた。

「まったく……これじゃ帰れないじゃない」


 イギリス――ロンドンのパディントン地区にあるパディントン駅は日本での東京駅に相当し、グレートウェスタン鉄道のターミナル駅として1838年に開通した。現在の駅舎は1854年に鉄道技師であると同時に、建築も手がけるブリューネルらよって設計・開設され、その路線はブリストル、バース、ウェールズ南部、コーンウォール方面への長距離路線、オックスフォードやロンドン西部への近郊路線、そしてヒースロー国際空港への直結列車が日々、国内外の人を出迎え、見送っている。

 10月28日、イギリスに住む親戚への挨拶と観光を兼ねた3泊4日の短い滞在を終え、少女は当初の目的地であるウィーンへ戻る為、パディントン駅にやってきたのが40分ほど前。そして、見送りを兼ねて一緒に駅に来ていた親戚の子が「そういえば超〜おいしいクッキーが近くで売ってたんだよ、お土産にちょっと買ってくるね」と言う言葉を残し、雑踏の中に消えていったのが30分前。ちょっと遅いのでは、と思いはじめのが15分前、そして10分前には信じがたいことに、どこかで迷ったのだと確信した。

 当人が雑踏の中に消えていった時、何となく嫌な予感はしたが、予定調和の喜劇とすら思えるこの物事の展開ぶりに少女は少しイライラし、そして同時に困ってもいた。時刻表と腕時計を交互に眺めて溜息をつく――この10分間で、どうしようという単語とともに繰り返される行為だった。

「大丈夫、落ち着くのよ……今にも帰ってくるはずだから、短気になっちゃダメよ」

 物事がうまく運ばないと突飛な行動に出てしまう癖を自覚している為か、少女は自分を戒めるように呟いた。数か月前、自分の願掛けと違ってコンクールに優勝できなかった時、橋から大切なものを投げ捨てた。その5年前は大事なコンクールを放り出して埠頭まで走ったという"前科"がある。

「今にも戻って――あっ!」 

 人混みの中に見覚えるのあるコートが見えたが、その僅かな希望は着ている相手が外国人だったことにより潰えてしまい、追い打ちをかけるようにホームに自分が乗るべき電車が間もなく到着するアナウンスが流れ始めた。

 そう……分かったわよ。アナウンスを聞きながら立ち上がった少女は決心した。やはり"自分のやり方"で、このトラブルを対処することにした。

「変なお願いしてごめんなさい、パディントン。やっぱり、自分のやり方で探してみるわ」

 旅行鞄と大切なバイオリンのケースを取ると、少女は――遠藤晶は暫しの話し相手となってくれたクマのパディントンの銅像にそう言って別れを告げ、ある場所を目指してはじめた。


協演時間:4分08秒


「まったく……これじゃ全然ダメじゃない」

 パディントン駅のヴォールト構造の天井を見上げながら、私は呟いた。今しがた期末考査の課題曲の一つにもなっている『G線上のアリア』を曲を弾き終えたが、無事に弾き終えた達成感などほとんど無く、ただ疲労感だけがあった。

 『G線上のアリア』は曲名の通り、バイオリンのG線のみで演奏されるのが特徴となっている大バッハの管弦楽組曲「アリア」から取り出された単独名称である。一方、その特徴が一音が短かく、ムラを"ごまかしやすい"早い曲に比べ、ゆっくりと弾かれる故に音のごまかしが利かない点がある。弾き終えるまで自分が何度細かいミスしたのか思い出すだけで、気分が沈んでくる。

 今年のクラスが始まってから出された課題曲なら、それこそ目を瞑ったままでも弾ける自信があった。しかし、その弾いていた曲が本当に譜面通りなのか自信が持てないでいた。リズムも音程の強弱も正確に弾いているが、どんなに弾きこなしても胸の内は収まらない。数曲で切り上げようと思っていたパフォーマンスも1時間近く経過し、10曲以上も弾いているが、一つとして満足できたものが無かった。

 いつから自分が、こんな状態になっていたのかと思う。思っていたよりも曲がむずかしい?それとも弦のチューニングが合っていない?違う……そんな屁理屈みたいなことではなく、夏休み明けの"あの出来事"が大きく関係しているのだと改めて思った。

 その日、クラスから一人の生徒がアカデミーを去った――自主退学だった。とりわけ親しい間柄ではなかったが、相手が自分の何倍も上手くバイオリンを弾き熟すことだけは認識していた。クラスメイトから聞いた話では、家庭の事情で学費が払えなくなり、自主退学を選んだとのことだった。所得税やら付加価値税やらで、何かと生活費が割高なイギリスではさして珍しくない話であり、普通なら「そう、残念ね」の一言で済みそうな出来事が、奇妙なほど私の胸を突いた。

 卒業はできるかもしれない……しかし、卒業後に現状の成績では自分がこのまま何も出来ず、何も手に入らないまま退学した人と同じように終わってしまう気がし、どれほど漠然としか自分の将来を考えてこなかったのか思い知った。

 焦りの原因はとっくに分かっており、その為に練習時間を増やし、演奏の幅や技術を膨らませようと課題曲以外にも取り組んでいるが、何を演奏しようと不満ばかり感じる解答を知りたかった。しかし、そんなあやふやな質問に答えられる人など何処にいるだろう……地図に無いどこかの荒野に放り出されたようなものであり、そんな時どうすればいいかアカデミーでは教えてくれない。

 結局のところ、自分を救えるのは自分だけということなのだが、不安や焦りが心に降り続け、少しずつ積もって私を疲れさせていた。肉体的な疲れもあったが、それ以上に精神的に疲れていた。

「今日は……もう帰ろう」

 1時間近く必死になって1音も間違えないよう、1トーンもズレないよう弾いたのに、考査試験への手ごたえどころか出来たことといえば、問題の周りを今日もただグルグル回っていただけのような気がする。それに……帰ったところで、私は何をするつもりなのだろう。また闇雲に練習か?こんな薄氷の上を歩き続けるぐらいなら――

「……Excuse me」

 色々と嫌な考えを巡らせていた為だったのかもしれない。いつの間にか誰かが近くに立っていて、自分に話し掛けていることに気づかなかった。

「Excuse me, but would you kindly to help me?」

 再度、私に話しかけた東洋人……日本人だろうか?ゆるくウェーブの掛かった髪と、それを留めるのに少し大きめのヘアバンドをした少女が自分に話しかけていた。流暢とは言えないが、かなり上手な英語で何か助けが必要だと言っている。

「Well, ah……yes, what can do for you? If you don't know which platform to go, the guidance of the station is over there」

 何だか切羽詰まっているように見えた彼女の表情から、思わず身構えてしまったが、彼女の傍に2輪の旅行ケースがあったことから構内で迷ったのかと思い、傍にある構内案内図を指差し伝えた。だが、その少女の反応は私が予想していたもとは違っていた。

「I know it's kind of strange request to ask but, can you perform a violin with me?」

 そう言いながら、もう一方の手に持っていた物を少し掲げた。それは自分の足元に置かれているのと同じ物……バイオリンのケースだった。

 一緒に演奏してほしい?この日本人は何て変わったリクエストをしてくるのだろう。たまに流行曲を通行人からリクエストされる時もあるが、一緒に演奏してほしいというケースは初めてだった。

「Well……I don' know what to say. To me, there's no problem having an ensemble. But, first of all......could you tell me the reason? I just can't accept your request readily」

「I'm sorry for asking such a strange thing.Ah......it's a long story and bit ashamed to say but, it seems that my relative is lost in the station and I thought that the sound of the violin might help to find out.」

 いきなり現われた少女の頼みごとを聞くほど能天気ではないので、念のために理由を尋ねたが……その内容に驚くことなのか、あきれることなのか戸惑ってしまった。

「Have you tried the station premises announcement?」

「Well......I've already tried twice but, it seems that my relative in panic and might not be lisining. Also I don't know where to ask for the permission like this」
 
 バイオリンを奏でて、戻ってこない親戚を探す……大胆なことを考えるものだと思いながら、しばらく彼女の奇妙な頼み事について考えた。当然、変な悪ふざけや冷やかしにも思ったが、旅行中の少女が初対面の私にそんなことをして得するワケでもないし、その焦っている様子に嘘は無いようなので、しばしの逡巡のあと、私は了解した。

 正直なとこ……適当な理由をつけ、このバカみたいな頼み事を断ることも出来た。一方、その時の私にはエリザベス女王が迷子になっていようが、どうでもいいと思うほど半ばヤケになっていたのか、突然現れた少女のことを気分転換のいい機会程度にしか見ていなかった。


 お互いに簡単な自己紹介を済ませた後、荷物とケースを置いた彼女は早速、準備にかかった。留め具を外し、開けられたケースの中には、厚手の布に包まれていたバイオリンが現れた。布から取り出されたのは――驚いたことに年季の艶が出ているアスハウアーレオ製のバイオリンだった。まだシニアハイぐらい子がアスハウアーレオとは……日本人は誰もがお金持ちだとい嘘くさい噂は、どうやら本当なのね。

 次に彼女が取り出したのは、紅い石鹸のようにも見える松脂だった。バイオリンは弦と弓の毛の動きの摩擦によって音が出る思われがちだが、それには弓毛表面には松脂が十分に塗られている必要がある。塗布する量が多すぎるのは無論良くないが、少ないと音がかすれたり、雑音が混じるので奏者の癖や使用するバイオリンによって適量が異なり、自分の楽器の知り尽くしていないと適量が分からない。だが、見ている限り彼女は慣れた手つきで弓の根元から塗布を仕上げていく。

 そして最後に取り出したのが……台所で食器などを洗うのに使う黄色いスポンジだった。

「Interesting. Is that sponge going to be your shoulder pad?」

「Well......I was useing thick handkerchief or the towel when I started the violine but, apparently this stabilizes the my instruments best.」

 少し恥ずかしいところを見られてしまったのか、彼女ははにかみながら肩にスポンジを乗せ、それを使う経緯について話してくれた。なるほど――薄くても弾力性もありそうなので、今度自分も試しにやってみるか。

「So……whose number are we going to play? Conventionally Vivaldi's Four Season? Or the Brahms's Waltzes, Op. 39?」

「Surpose there's two violines here, why don't we play number for the duo, like a ……」

 そのときの本心を後に振り返ると、ちょっとした対抗心からデュオの曲目では中級のを出したが、彼女はしばらく準備の手を休め考えたあと、デュオで弾く曲目の中では上級レベル相当のではどうかと提案した。私も知っている曲であり、弾けないワケではなかった。なるほど……伊達や見栄でアスハウアーレオを持っているのではない、というワケね。

「That could be a good selection.No problem withme……, so are you going to take the first solo?」

「Ok, then that makes the last main role is yours」

 お手並み拝見の意味で初めの独奏部分を弾くのか尋ねたが、問題ない、と。随分と自信満々じゃない……と思いながらバイオリンを左肩に載せ、弓を執る彼女を見た。ボウイングのフォームがしっかりしており、そこそこ経験を積んでいるのでは、と思う内にネック上にかかった指がE線を押さえ、ゆるく構えられていた弓が走り始めた。

 ポジション移動の難しい冒頭部分をこなし、澄んだ音色が得られるフラジオレット、そして高音から低音への繋ぎ……聞いた話では日本のコンクールは、いかに正確な音階を取れるかなどの技術面ばかりが、審査員の採点基準となっている。ミスは何ヶ所あったか、音程がどの程度ハズれたか、リズム感はどうだったか、必要とされるテクニックはクリアしていたか。つまりは、"芸術的"とか"音楽的"なベクトルとは違う、ある程度の技術でもって"コンクール向き"の弾き方を会得すれば、大抵のコンクールは通ってしまうらしい。

 アカデミーに留学している日本人の演奏はその影響からなのか、それなりの腕前はあるが、どれも"型どおり"ばかりだった。だから彼女の演奏が始まるまでは、同じように技術だけのモノかと思っていたが、奏でられる音を聴いていると自分の予想が見当違いのように思えてきた。

 世間の批評家がよく使う"伸びと張りのある旋律"だとか、"表現力豊かな音"とかの陳腐な表現とはまるで違う世界の音だった。五度音階で出来ている、たった四本の弦からの音が重なり合こと――弦の振動がバイオリン本体やFホールに伝わって空気を震わせる事とは、これを指すのだと思った。

 演奏に聞き入っていた為か、しばらくして彼女が少し顔をあげて横目で私を見た時、それが何を意図していたのか一瞬分からなかった。自分のパートが、もうすぐ始まりそうなのを思い出し、慌ててバイオリンを構え、彼女の音に合わせた。ギリギリで間に合うことが出来てホッとしたが、最初の協演パートが終わり、自分のソロが迫ってくると不安が胸の内でモゾモゾと蠢きはじめた。

 曲は三つのパートで構成され、最初の二つでお互い主旋律と副旋律を交代しながら演奏し、最後のパートで頭からの協演となる。しばらくは自分のソロが続く為、嫌でも先に演奏した彼女の演奏を意識してしまう。

 ――彼女のに比べて少しテンポが速いのではないか?今さっきの弓の返しはどうだったのだろう?演奏だけに集中しようとするが、今の自分にはそれすら難しい。どれほど切り捨てようと、「失敗したくない」「彼女の演奏に劣ってないか」「間違えずに弾き終わりたい」などという雑念が、ふつふつと沸き起こる。だが、ここまで来て演奏を止めるワケにもいかないので、もう多少のミスがあろうと、この一曲だけは取りこぼさないよう、私は自分の演奏だけに集中するよう目を瞑った。

 私が主旋律を担当している第二パートでの協演部分に入り、再び彼女のバイオリンが音を奏で始める。細かなビブラートなどの技巧の高さへの感心もあったが、それとは別の不思議な感情がわき上がる……曲に妙な懐かしさを感じていたのだ。何年か前にあったクラシックブームで少し話題になった程度の曲なので、小さい頃に弾いていたという記憶は無いし、クラスの講義に使われるような曲でも無い……曲に関しての記憶を辿ってみるが、特に思い出になりそうな要素が無いにもかかわらず、自分の中で生じた不思議な感情の正体が分からなかった。

 再度曲が一巡し、最後の協演パートへと入ったが弾き始めの時と違い、音の正確さや自分の技術がどうとかの焦りはいつの間にか消えていた。一言で言えば、ただただ彼女との協演が楽しくなっていた。一音一音必死になって追っていた先ほど違って、雑多なものがどこかへ遠ざかっていくような気がする。



 弓を返し、途切れないよう最後の長いレガートを弾き終えた僅かな静寂のあと、拍手が沸き起こった。瞑っていた目を開けると、1人、2人ではなく、それこそ自分達を囲むように即席の会場ができており、中には喝采をあげる人もいた。この演奏が始まるほんのちょっと前、ただ通り過ぎるだけだった人達が、いつの間にか自分たちの音楽に聴き入っていた。しばらく……何が起きているのか理解できなかった。

 乗り継ぎでホームからホームを移動していた旅行者、仕事でどこか遠く行くためパディントン駅にやってきたスーツ姿の人たち、何十人もの人たちが多忙な駅での行動を一時止め、聴き、拍手していた。そして――拍手が鳴る中で私は理解した。ほとんど"悟った"という表現を使ってもいいかもしれない。それは誰かに自分の奏でる音を聞いてもらい、ただ喜んで欲しかったのだ。

 アカデミーに入る前は、どうやったらパルティータ2番で音の繋ぎと高音の安定をこなせるのかを考えていた。誰も見ないような深夜のオーケストラの番組で、ソリストの技術をヘッドホンで熱心に聞いていた。ベートベンの第二楽章のテーマはどんなふうに弾けばいいのだろう、サラサーテの早いテンポはどうやって練習すれば弾けるのだろう……小さい頃からずっと悩み考えていたのは、どうやったら自分の奏でた音が人を魅了できるかだけだったのに、いつの間にか成績のことばかり――。むろん実力を測る物差しとして成績も大事だが、それらが私をかき回し続け、大好きなバイオリンの音のことが置き去りにされていたというのは、何とも情けない話だ。

 だが、この答えに辿り着けたのは彼女のおかげだ。エンドウという名前の日本人が、バイオリンを弾くという意味がどういうことかを教えてくれた。たまたま通りかかったシニアハイの少女に、こんな大切なことを思い出させてもらうなんて自分の未熟ぶりを恥ずべきか、幸運に驚くべきか迷ってしまう。

 あまりにも多くの出来事に私は言える言葉が無く、ミス・エンドウを見つめ、うなずくだけしか出来なかった。何とかお礼の言葉を口にしたものの、集まった人たちの拍手はまだ鳴り止まず、彼女にはたぶん届いてなかったと思って言い直そうと――

「晶ちゃん、やっと見つけた〜」

 どこからか間の抜けた声がしたかと思うと、人垣を掻き分けて、汗だくで買い物袋を持っている日本人がいた。これに関してはディアストーカー帽を被った名探偵の推理が無くとも、誰だがすぐに分かった。バイオリンを弾いて人を探すという、何だか御伽話のような頼みごとの相手が見つかったようだ。ただ……再会の雰囲気は、あまりよろしくないように見える。

「やっと戻って来たみたいね。っで、……いったい何をやっていたのかしら?」

「何ていうのか……シナモンと蜂蜜の組み合わせがけっこうイケてて、選ぶのが……」

「へぇ〜、私のヒースロー・エクスプレスのチケットもあなたが持っているというのに、つまみ食いをしていて遅れたのね」

「う、うん……っじゃなくて、晶ちゃんのお口に合うものを選ぶのが大変で……その……慌てて戻ったんだけど……」

 遅れてやってきた子の語尾が情けなく消えかかる。日本語なので、2人が喋っている事は分からなかったが、組んだ腕の二の腕を指でトントンと叩いているミス・エンドウの雰囲気で、何が起こっているのかは分かる。汗だくの子は、まるで先生にイタズラが見つかったようなオタオタとしながら、遅れてたことへの自己弁護を展開中なのだろう。

 汗だくの親戚に二言、三言告げたると、彼女は私の方へ振り返り、握手のために手を差し出してきた。

「Thankyou so much for your wonderful performance. Looks like I've just found what I was looking for」

 先ほどの演奏の興奮が冷めぬ震える心のまま、私も手を差し出し、握手した。

「I'm the one who have to appreciate. I was lost too but, you've just indicated the way out」

 私はなんて感謝の仕方をしているのだろう。自分の演奏に自信を無くしかけていたこととか、あなたの演奏に触発されたとか、もっと言うべきものがあるはずと呆れてしまう。ただ、不思議な事に言いたいことが伝わったのか、彼女は何も言わず、ただ優しく微笑むだけだった。

「ほらほら晶ちゃん、ヒースロー行きの特急がもうすぐ出ちゃうってアナウンスが――」
「あなたがギリギリまで食べてたのがいけないんでしょ!まったく、次からは自分のチケットは自分で買うことにするわ」
「何か……何かひどいこと言われた気がする。クラウス先生の講義が本格的に始まる前に優しい〜親戚が晶ちゃんをイギリスに呼で――」
「はいはい、それじゃあ今度は迷子にならないようにしてね。それに、実際呼んでいただいたのはあなたのお父さんの方でしょ?」

 手早くバイオリンを仕舞うと、親戚の子に少女は押されるようにヒースロー・エクスプレスのホームへ向かい始めた。ホームまででいい……私も彼女を見送ろうと思ったが、路上パフォーマンスの誰もがやるように、自分のバイオリンケースが出しっぱなしになっていることを思い出した。さすがにバイオリンの空ケースを盗る人はいないのでは、と迷っている内に、あの少女は行ってしまった。人ごみに消えてしまうちょっと前、少しだけ彼女が振り返り、元気よく手を振った。ただの思い込みなのかもしれない――だが、私には彼女の行為が短い別れの仕草というより、古くからの親友同士が一日の終わりにするような「それじゃあ、また明日ね」というような何気ないもののように感じられた。



 たった1曲だけ――協演時間4分08秒の短い演奏が終わったことが伝わると自分の目的や用事を思い出したのか、集まっていた人々も少しずつ雑踏の中に消えていった。そして1,2分もしない内に、パディントン駅構内の風景は、まるで魔法が解けたかのように、いつもの姿に戻っていた。

 いつも通り……元通りの風景を見ながら、そんな言葉が思い浮かんだ。客観的に見れば、私の演奏技術が短時間で飛躍的に跳ね上がったとか、眠っていた才能が開花したとかの奇跡が起きたワケではない。私も1曲弾いたぐらいで、そんなことがあると思うほど楽観的ではない。つまり……私は荒野に放り出されたままだ。だが、もう悲観したり、うらやましがるのはやめた――昔の偉い人が「同世代や過去の人間に勝ろうとするのは無意味なこと。今の己に勝れ」と言っていた様に、時間の無駄なのだ。

 必要なモノはすでに持っているし、何よりも"アキラ・エンドウ"というバイオリンを弾く少女の名がコンパスのように荒野の中、どちらに向かって歩き出せばいいかを私に示してくれた。

 ホームに一人残った私は例えようの無い感謝の思いの中でバイオリニストでよかった、バイオリンを辞めずに頑張って来て良かったと思った。そして――まだまだバイオリンを続けようと思う。初めて出会い、もしかしたら二度と出会うことはないかもしれないあの少女に再び会えたら、その時は「自分の演奏に自信を持って弾けるようになったのよ、一曲どうかしら?」という言葉と共に、今日の感謝をちゃんと伝えようと思う。

「さてと……」

 伸びをしながら、再び見上げた錬鉄の柱に支えられた3連アーチ状のガラス屋根からは、曇り空の多いイギリスにしては珍しく陽が差し始めていた。こういう時、気持ちを新たに演奏を再開するのがお決まりなんだろうが、ずっと演奏していた為、肩が凝っている上に、おなかも空いていたので、近くの売店かコーヒーショップで休憩兼軽い腹ごしらえを済ませてから、再開することにした。演奏技術を磨くことも大切だが、どこかの偉い人が「パンとぶどう酒で、人は道を歩く」とも言っていたように、食事もまた重要なのだ。

 ケースにバイオリンと弓を仕舞い、パディントン駅の出口へ向かいながら何を食べようかと思う。ハンバーガーやスパゲッティでは本格的な昼となってしまうし、ビスケットやブラウニーなどのスナック類ではちょっと物足りない……。何か程よく私の小腹を満たしてくれるものは……そうだ、今日の素晴らしい協演の場となった駅にちなんで、マーマーレードサンドイッチにしようと思う。








海彦さんあとがき

・あとがき;

 アニメの最後にて、晶はウィーンへの短期留学を決め、特典CD内では少しばかり滞在先に触れていましたが、その期間中に彼女がどんな日々を過ごしていたのかを想像し、短期留学の最中イギリスへ小旅行に来たとの設定で、今回のSSを投稿させていただきました。
 しかし、バイオリンというのは思っていた以上に奥の深い楽器だったんですな……。楽器の歴史もそうですが、松脂がないと音がまともに出ないとか、数時間ものコンサートで弦を押さえ続けられるよう、奏者の握力がすごく高いとかetcetc。
 最後に、今回のSSを書くにあたって色々とバイオリンのクラシックを聞き比べましたが、イメージ曲としてこちらの曲が一番しっくり来たので、載せておきます。…ちなみに原曲となる曲をなぜ「私」が知っていたのかなどのツッコミはご遠慮を ><;

Geminiart High Quality「時代」
http://www.youtube.com/watch?v=tI8uGFTbRhE





〜今日のお話〜

 海彦さんより、主人公君の小説を頂きました。

実は私も、その後の晶のことがすごく気になっていたのです。
海外でとても成長していたのですね。

ロンドンのステーションでの出会い、とてもステキです。
続きが気になりますよね♪(^‐^)


                  KAZ



(2009/09/02)




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